2010年03月05日
子供への虐待事件について思うこと
両親による虐待の後に子どもが亡くなるという痛ましい事件が、奈良県桜井市と埼玉県蕨市で相次いで起こった。
亡くなった幼児はいずれも保育園などに通っておらず、近所の人とのかかわりも限られていたようで、行政も虐待死を防げなかったとか。
蕨市でなくなった子供は、体重が4歳児の平均より6キロ軽い10キロで、頭や顔には複数の擦り傷やあざもあったそうである。近所の人の話では、怒鳴り声が頻繁に聞こえ、子供の「お水を下さい」と哀願する声も響いていたという。
また、桜井市の5歳のお子さんは、2歳から親が働いている間は家に一人で放置され、一日一食しかご飯を与えられず、餓死したそうである。
4歳児や5歳児の世界なんてまだまだ狭く、家族がその世界のほとんどを占めている。そんな親からこの仕打ちとはあまりにもひどい話である。同じ年頃の子供を持つ親としても、非常に憤りを感じる。個人的には、こういった親たちに更正する機会なんか与えず、逆に子供たちがどんなに苦しんだかを味わせてやりたい気分である。
近頃、『モンスターペアレンツ』なる親がいるが、こういった児童虐待をする親もまた、モンスターに違いない。こういう親は、必ず、しつけと称した暴力を子供に対して振るう。しつけは確かに必要である。しかしながら、しつけって死ぬまで殴ったり、ご飯を与えなかったりすることなのだろうか。
親が子供を選べないように、子供も親を選べない。子供は、親の所有物ではない。彼らにも意思があり、親とは別個の人間である。全ての子供は親から愛される権利を持っている。
こういった痛ましい事件を見るたびに、考えることがある。それは「親の資格」ということである。「親たるものこうあるべし」とえらそうに語れる立場にはないが、少なくとも、守られるべき存在である乳幼児に対し、虐待を加えるような親は、親たる前に、人間としても問題があるのではないかと思う。
こういった背景には、行政の怠慢もある。様々な手だてで子どもの姿を確認する努力が必要だと口先ばかりでなく、法整備して、強制的に確認できるようすることこそ、政治の役割ではないか。”命を守る”とえらそうに能書きをたれるなら、くだらない法案ばかり出したり引っ込めたりするよりも、こういったところに目を向けてほしいものである。
亡くなった幼児はいずれも保育園などに通っておらず、近所の人とのかかわりも限られていたようで、行政も虐待死を防げなかったとか。
蕨市でなくなった子供は、体重が4歳児の平均より6キロ軽い10キロで、頭や顔には複数の擦り傷やあざもあったそうである。近所の人の話では、怒鳴り声が頻繁に聞こえ、子供の「お水を下さい」と哀願する声も響いていたという。
また、桜井市の5歳のお子さんは、2歳から親が働いている間は家に一人で放置され、一日一食しかご飯を与えられず、餓死したそうである。
4歳児や5歳児の世界なんてまだまだ狭く、家族がその世界のほとんどを占めている。そんな親からこの仕打ちとはあまりにもひどい話である。同じ年頃の子供を持つ親としても、非常に憤りを感じる。個人的には、こういった親たちに更正する機会なんか与えず、逆に子供たちがどんなに苦しんだかを味わせてやりたい気分である。
近頃、『モンスターペアレンツ』なる親がいるが、こういった児童虐待をする親もまた、モンスターに違いない。こういう親は、必ず、しつけと称した暴力を子供に対して振るう。しつけは確かに必要である。しかしながら、しつけって死ぬまで殴ったり、ご飯を与えなかったりすることなのだろうか。
親が子供を選べないように、子供も親を選べない。子供は、親の所有物ではない。彼らにも意思があり、親とは別個の人間である。全ての子供は親から愛される権利を持っている。
こういった痛ましい事件を見るたびに、考えることがある。それは「親の資格」ということである。「親たるものこうあるべし」とえらそうに語れる立場にはないが、少なくとも、守られるべき存在である乳幼児に対し、虐待を加えるような親は、親たる前に、人間としても問題があるのではないかと思う。
こういった背景には、行政の怠慢もある。様々な手だてで子どもの姿を確認する努力が必要だと口先ばかりでなく、法整備して、強制的に確認できるようすることこそ、政治の役割ではないか。”命を守る”とえらそうに能書きをたれるなら、くだらない法案ばかり出したり引っ込めたりするよりも、こういったところに目を向けてほしいものである。